2016年10月2日(日) ― 11月12日(土)
3331 akibatamabi21
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-11-14
3331 Arts Chiyoda 201・202
//出展者
//トーク
16.10.09石岡良治 x 上崎千 x 谷口暁彦 x 渡邉朋也
//企画
砂山太一
//監修
//展覧会ステイトメント
本展は、見えているもの、意味づけるということ、それがどのような自律性を持っているのかという問題を取り扱っている。
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情報が空気のように世界を満たし、すくなからず私達の物の見方、考え方に変容をあたえている現在、それに伴うよう新しい感性が表明されつつある。近代以後の浮動する現代を生きる私達にとって、すでに以前のそれとは異なった日常性の中、再度実直に、世界の捉え方を見つめなおすことが必要に思われる。
同時代的な状況観測に留まらず、その悟性の先にあるものを提起すること。
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渡邉朋也は、山口情報芸術センターに技術スタッフとして勤務し、彼が居住する中国地方を中心として2014年より、老朽化した公共物をCAD設計や3Dプリンタを用い修復する《なべたんの極力なおそう》シリーズを展開している。田園の脇にあるガードレールの抜け落ちたボルトなど、匿名的で他愛もない公共物を修復するという一見誰にとっても意味のない行為の構築や、その3Dモデルデータをオンラインでシェアすることなど、ここには渡邉のデジタル技術を使用したものづくり文化の隆盛における進歩主義的語り口に対する自己言及的批評がみてとれる。また近作では、キャラクターぬり絵の上にクレヨンがぎこちなく塗られた作品を提示している。そこでは、渡邉自らの手によって塗られたのか、または制作者以外の誰かによって塗られたのか、ドローイングボットなどを使用して塗られたのかは言明されない。ただ乱雑な色ぬりの状態のみを提示することによって、表面上に介在し半透明化する制作主体の在り方を示している。
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時里充は、画像認識や計量化といったデジタル性、およびその観測位置を起点とした作品を展開している。近作《見た目カウント》(2016)では、卓球ボールをラケットの上で跳ねさせる人物など、カウント可能な動作がモニタに映る前で、自動化された数取り器が数を刻む。電気信号に反応し、数を増やし続ける数取り器と、映像上のカウント可能な動作は、鑑賞の認識化では連動されるものの、システムの実質的な関係性は秘匿されている。また、《視点ユニット》(2014)においては、可動性のある箱の中に、角度計やメジャー、それらの目盛り部分を撮影しているビデオカメラが取り付けられている。鑑賞者が動かす箱の動きに合わせて変動する目盛りは、内部のビデオカメラをとおして箱外のモニタに表示され、通常の測量における動作と視点を分離し、認知やその過程における不全性自体を顕在化する。時里は、作品を介しこのような手続きを経ることによって、主体の観測可能性、計量的観測行為につきまとう非対称性の問題を昇華しようとしている。
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山本悠は、映像とオブジェクトを点在させた作品《情報くんと物質ちゃん》(2015)を制作している。この作品は、展覧会会場入口の外に設置された落し物のようなスマートフォンのロック画面に、「近くの駅に着いた」「もう寝た」など、定期的に誰かから送信されてくるショートメールが聞き慣れた通知音とともに表示されるインスタレーションに始まる。そして、会場の各所に設置されたエッセイ、ポロシャツ、お弁当箱、ガラスのコップ、そして山本によって生み出された情報くんと物質ちゃんという3Dキャラクターが登場する映像作品が続く。映像は、情報くんが物質ちゃんの言うことや振る舞いに寄り添い続けることだけをおこなうという物語のなか推移するが、世界における意味というものの不在自体を突きつけるかのように、突如カットは変異していく。作中に登場するものたちは、あらゆるオブジェクトが抒情と結びつくことによって生ある眼差しを召喚すると同時に、その生が物質的表層で滑り落ちて行く光景を称揚する。
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盛圭太は、パリを拠点とし、コンテンポラリードローイングの潮流の中でその制作活動をおこなっている。刺繍糸を用い、張力をかけながらグルーガンで端点を支持体の上に固定していくことによって獲得される線分を、重層させ、像を操作する平面作品を主に制作している。両端点を固定された糸によってまっすぐに引かれたその線の質は、制作者の意思からは一段離れたところにあり、コンピュータ上のデジタルドローイングのようであると形容される。一連の糸を使用した作品群は、《Bug report》と名付けられ、糸という媒体的条件に自らの制作行為を拘束しながら、随時的な図像の構築と解体を繰り返し、常に異なる繋がりを孕む中間的なイメージの拮抗点を描き出す。また、2011年から開始されているTumblrサイト「drowsy name」(=眠たい名前)では3万枚を超える走り書きのような線描のスキャンが淡々と更新し続けられており、線は時に色を持ち、面となり、固定的な図像を持たないままその連なりがひたすらに運用されている。
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新居上実は、写真を主要な媒体として制作しており、2014年頃から作者自身の室内の片隅で、どこにでもある、どこにでも売っているオブジェクトを唐突に構成し被写体とする作品の制作を開始した。写真は主にフラッシュを焚いて撮影されており、通常暗がりに対して適用されるフラッシュというカメラの一機能を、静止した近距離の対象物に使用することで、写真上に立ち現れる対象物の遠近感に摑みどころをなくし現実感を喪失させている。カメラのフラッシュはレンズ位置を暗示することから、撮影主体の存在が強化されると同時に、近距離の被写体に対し光が当てられることによって空間的奥行きを減衰させる。近作では、フラッシュによる撮影主体の存在強化を避けるようにして、撮影した写真平面の一部が中心性を持たぬようなトリミング処理や、フリーデータとして流布している3Dモデルのレンダリング画像を作成した後にプロジェクターで投影し撮影するなど、撮影主体を限りなくずらし始めている。視点の事後的な操作、撮影における主体強化や恣意性への省察をおこなっている。
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砂山太一は、2013年から2015年にかけて、情報技術が浸透した時代における創造性への言及を射程とする「マテリアライジング展 情報と物質とそのあいだ」を企画している。芸術および工学をはじめとした諸領域における研究や制作活動に「情報と物質とそのあいだ」という切り口を与えることにより、分野横断的な思索を可能とするプラットフォームを築いた。また、作品《ローライフ》(2014)では、コンピュータ上で物理演算を用いて導き出した形態を、紙を用いた別の構造システムに転嫁することによって、現実世界の認識作用における誤読の顕在化を図った。近作《角材の軸を連続させる》(2015)では、45mm角の杉荒材を用いた構造システムの開発をおこなっている。45mm角の杉荒材には、その寸法において実質的には42mm前後から48mm前後と幅がある。そのような幅の中で、粗さをそのまま取り扱い「45mm」を「45mmである」として運用できるようにするための操作対象の捉え方を提案している。
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黒木萬代は、哲学を専門領域としており、《ある少年のノート》(2015)では、モダンという規範からのズレ自体を称揚することでポストモダン期から息づく「かっこいい」や「面白い」という価値観そのものを中心とした思想が、破滅へ向かわざるをえないという臨界点を、黒木自身がある少年になりきることで描きだした。続く、対談《『可愛さ』について》(2016)では、その少年への強固な強制力を持つ「かっこよさ」からの脱却可能性が「かわいい」にあると指摘する。感覚・認識可能な世界である内部世界と、感覚・認識不可能な外部世界において、「かわいい」は、「絶対的に定義不可能であるかのような闇としての『外部』がなぜかある形態を獲得して内部にあらわれてくるようなものではないか」と提起した。「かわいい」は固定化しえず、どこまでも「不定」なものであるために、「『内部』においては自己同一性を乱すものとして」、「『外部』においては『内部』を自らに同一化させることを妨げるもの」として存在するため、両義的に破壊的であるが、創造性が伴う破壊であるとする。
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見えない世界が見えているものとの重なり合いを強め全てが半透明化しつつあるただ中で、その関係性の強調でもなく、固有性への移乗でもなく、内部的に立ち上がる関心性、対象認識に対し、飛躍や不整合をその本質として許容することで「適切な何かのための十分な質や状態」を獲得し、それを信じて運用すること、本展はそのような眼差しに焦点をあてる。